ハンブルクバレエ団『ニジンスキー』北京公演

ハンブルクバレエ団『ニジンスキー
2012年1月27日(金) 19:30
中国北京・国家大劇院オペラハウス

会場・観客について

 会場は国家大劇院の、中国が国家の威信をかけて2007年に作った複合大劇場施設である。日本の新国立劇場のように、オペラホール・中劇場・小劇場・コンサートホールがある。

 日本でのバレエ客と比べて、中国の客層は、見た感じ普通の人が多い。日本の場合(私感だが)、古典作品ではバレエを習っている女の子とそのお母さん・いかにもバレエをやっています(した)という女性が8割くらいを占める。古典から離れるにつれ子どもが減って、コンテともなるといかにも「アート系です」という比較的若い男性が増える。年配の方も、スマートな出立ちの方が多く、アート・ダンス系の関係者が多いように思う。
 中国では、普通の中高年の夫婦(かなり富裕層のはず)がほとんどで、ダンサーっぽい人もいるにはいるが、ほんの少数。日本の状況と比べると「なんでこの人たちノイマイヤーを見に来たんだろう?バレエとか知ってるのかな?ニジンスキーって誰だか知ってる?」と疑いたくなるような客層なのだ(偏見ですね、失礼)。だがそれもまったくの見当外れではないようで、見ている方が身を切られるように辛くなるニジンスキーの狂気の場面などで、動作のおかしさからか笑い声が起こったりしていた。また休憩明け第二部には、いくらか空席が増えた。私の隣に座っていた、代わる代わるテラスに身を乗り出して覗きこむ邪魔くさいカップルもいなくなった。まあ第一部の後半は、2人とも寝てたようなので。こちらは視界が開けてこれ幸い。
 実際、1000元のチケットを買うような人たちでさえ、上演中に携帯で写真は撮るわ、着信音が鳴るわ、でマナーもひどい。


はじめに

 ほんの数日前、たまたま知ったこの公演の存在。あわててチケット確保。同時にあった『マーラー交響曲第3番』の方は売り切れており『ニジンスキー』も残りわずかであった。金銭的事情により300元(約3600円)の安い席を選んだため、2階テラス席のはじっこ。舞台の3分の1が見えないという有り様であったが、距離は近いため、演者の表情はよく見えた。1階席などは全部1000元(約12000円)ほどで、貧乏留学生にはとても買えない。
 『ニジンスキー』を観るのは初めて、いやノイマイヤー作品を全幕で見ること自体ほとんど初めてかもしれない。ガラなどで一部を観ることはあっても、ノイマイヤー作品は「きれいで知的な感じだけど退屈」なイメージだった。しかし今回の観劇で、その印象は一変した。ノイマイヤーの構成力、演出の巧みさに、圧倒される。音楽衣装照明、その全てがスムーズに上手に構成されており、気がつくと引き込まれている。
 第二部の途中、バレエ作品『ニジンスキー』を見ているという行為から離れ、ただただ、ヴァツラフ・ニジンスキーの人生における悲哀に気持ちが沈潜していった。最後はひたすら、この天才の悲しさと、やるせなさで思いがいっぱいになった。舞台を見ている、ということを忘れて。


印象と感想、雑感

第一部牧神の午後の場面の後の、盛り上がりがすごい。

 構成と照明が巧み。場面がぱたぱた変わってゆく。とてもスムーズ。目が離せない。一気に持ってかれる。誰かがブログでこの演目のことを、一度では消化しきれない、と書いてたがそのとおり。ものすごい量の比喩と情報と刺激が流れ込んで来る。メタファーというか引用によるメタファー。遊戯からの牧神。ペトルーシュカからの牧神。

ロモラとニジンスキーの相克。

 なぜこの2人でなければならなかったか。2人はそれぞれ、わかり合おう助けようともがいていた。でも、お互いのいる場所が違い過ぎた。ロモラの推し測れる限界を遥かに超えて、ニジンスキーの悲しみはあったのだ。
 おもちゃのソリに壊れたニジンスキーを乗せて、困憊したロモラが引きずってゆく。その場面が悲しい。

ペトルーシュカの怯えが、ニジンスキー自身の怯えとして突き刺さる。

 薄いカーキのジャケットが、軍服であり、第一次大戦を示していることに気づく。激しいスネアの音と、行進を思わせる強い足音。迫り来る戦争の恐怖と狂気。その軍隊の中にペトルーシュカが混ざって踊っているのを見たとき、その思いもかけなかった取り合せにショックを受ける。ロシアのおとぎ話のような世界にいたはずのペトルーシュカが、兵隊の隊列に混ざっている。戦争の恐怖に巻き込まれている。さっきまで、あんなに怯えていたペトルーシュカが、ニジンスキーが…
 ニジンスキーにとっては、ニジンスキーがおかしくなったんじゃない、世界が狂っていったのだ。そのギャップはニジンスキーの心中に起こったギャップと恐怖。それを視覚化されて、突き付けられる。
ニジンスキーから見た、ニジンスキーの心の中に起こっていった波を視覚化したのがこの作品なのだ、と思った。

飛び抜けた天才は普通には生きられない。

 それを庇護し、活用してくれるプロデューサーが不可欠である。しかし出会えたからといって、それが永劫、維持できるわけではない。ニジンスキーとディアギレフの出会いと、悲しい別れ。ロモラとニジンスキーの出会いと、悲しい2人旅。それがいかに悲しい組合せかということにも気付かず、彼らは奮闘していたのだろう。なんという悲哀。ディアギレフからニジンスキーを奪い、誑かした悪女という解釈が一般的だが、このノイマイヤーのバレエではその見方プラス、その悲しさの表現に傾斜していたように思う。


 以上、雑多だが思ったこと感じたことをつらつらと書いてみた。あまりにもショックを受けたので、もう一度きちんと見て、落ち着かせたい。