リー・ツンシン著『毛沢東のバレエダンサー』

リー・ツンシン(李存信)著『毛沢東のバレエダンサー』
読書録。ていうか時間がないのでただのメモ。


1972年 

学院は江青のために特別に踊りを準備した。だがそれを見た江青は、「踊りは問題ないようでしたが、なぜ銃や手榴弾を使わなかったのですか?政治的な意図はどこにあるのです」と聞いた。江青は伝統的なバレエのステップに京劇の動きを取り入れるように、とも学院幹部たちに指示したので、これを機に僕たちの時間割は大幅に変わった。
 江青の助言にしたがった結果、生徒たちはクラシック・バレエのプリエ(ひざを曲げ、体の位置を下げていく動き)の途中で、手はカンフーのしぐさをし、最後には目を見ひらいて大見得を切らなければならなくなってしまった。これが江青の意図する、西側と中国のやり方を組み合わせた「模範的」なバレエだった。
(中略)先生たちには江青のやり方がうまくいくはずがない、とわかっていた。クラシックバレエの訓練では踊り手は体の関節を外側に向けて伸ばさなければならないが、京劇ではその逆の動きが要求される。バレエでは流れるように、やわらかくステップを踏む必要があったが、京劇では鋭く、力強いしぐさをしなければならない。だが政府のプロパガンダによれば、学院は「模範的」バレエこそ、革新的にして「中国独自の」世界最高の舞踏であると評価していることになっていた。そしてそれに反論する人間はだれもいなかった。(P.150)


1974年

チャン・シューは、チュウ・ホウやチェン・ルエンなどと並んで、中国バレエの礎を築いたひとりで、(中略)チャン主任が着任して間もないある日、ベッドに寝そべって本を読んでいると、薄い木綿のマットの下になにか硬いものがあるのに気づいた。手で探ってみると、小さな本が出てきた。とても古い本で、ぱらぱらとめくってみると、全て外国語で書かれている。なにが書かれているのかはまったくわからなかったが、バレエのポーズの写真がたくさん載っている教科書の用だった。
 美しい容姿をした十代のダンサーたちによるバレエのポーズはとてもきれいだった。(中略)自分と同じ年格好のその少年の写真を見ながら、僕もいつかダンサーをめざす少年少女のために本に載るくらい、うまく踊れるようになりたいと思った。
 確証こそなかったが、だれがこの本をベッドの下に置いたのか、おおかた察しはついていた。人に知れたら危険なのに、わざわざこの本を隠しておいたのは、僕だけに見せるつもりだったからなのだろう。(P.189)


1975年

その年、学院は政府の要請で、初めて江青首長のために公演を行うことになった。学院は、中国で一番有名なバレエ『紅色娘子軍』の一場面を演目に選んだ。毛沢東軍の勇敢さを描いたこの作品では、銃や手榴弾を手にしたダンサーたちが跳躍したり、くるくる回ってみせたりするので、僕も大好きだった。(P.208)

 二年目の後半、学院はそれまで禁じられていたロシアのバレエ映画を生徒たちに見せた。ただし技術や芸術面でなにかを学びとるためではなく、物語を批評するという目的でだった。たとえば『ジゼル』の背景にあるのは資本主義社会だ。
 ジゼルという哀れな農民の娘は、貴族の暮らしを夢見て、物質的な豊かさを求める意外になにもしようとしない、といって生徒たちは批判した。そしてアルブレヒトにだまされているのも知らず、彼を愛し続けるジゼルをばかにして笑った。彼女を本当に愛していた農民を拒絶するなんて、なんておろかなんだろう。「これが資本主義者によって作られたバレエであることは明らかだ。われわれの模範的バレエと、なんとかけはなれていることか!」と指導員が言った。
 毛沢東を心から慕っていた生徒たちはみな、指導員の言うことはもっともだと感じた。だがそれでも僕は、アルブレヒト役を演じたダンサーのすばらしい踊りに感心せずにはいられなかった。それはボリショイ・バレエのウラジーミル・ワシリーエフだった。そして美しい『ジゼル』の映像を見てからというもの、『紅色娘子軍』は果たして芸術的に優れた作品なのだろうか、と疑問に思うようになった。(P.210)


『紅色娘子軍

ウラジーミル・ワシリーエフ/『ジゼル』アルブレヒトのヴァリエーション(1980年)


1976年

学院では別の模範バレエの公演に向けて、準備が進められていた。今回、僕は主役に抜擢された。『草原の子ら』というこの演目は、毛沢東のもとで、新しい世代の子供たちが彼の理想を実現するために力をつくすという内容だった。(P.211)

公演が終わると、バレエ科主任のチャン・シュー先生が一九七六年にスタートした新作バレエ創作プロジェクトの指揮をとった。蒋介石の国民党軍によって、両親が海羅沙という名前の木にかけられて絞首刑にされた、兄と妹の物語だ。物語を象徴する木がそのまま題名にもなっていた。両親の死後、兄と妹は引き離されてしまうが、最後に毛沢東軍の力で再会を果たし、ともに両親を殺害した人々に復讐を果たすというストーリーだった。(P.212)

当初、それらのビデオはあくまで「参考」として、学院幹部と教師たちが鑑賞しただけだった。生徒たちにみせなかったのは、西欧の悪影響をおよぼしてはいけないという配慮からだ。(中略)生徒たちが静まるのを待って、チャン主任は話し出した。
「世界でいまもっともすぐれたダンサーはたぶんバリシニコフだと思う。このビデオを見せる目的は彼から学び、いまの世界水準を理解してもらいたいからだ。ただし、何度もいうように、決して西欧世界の暮らしぶりについて学ぶためではない!(中略)」(P.222)


ミハイル・バリシニコフ/『ドン・キホーテ


1978年

学院でも最後の年、生徒たちはようやく反革命的だなどと批判される心配なく、胸を張ってバレエの練習ができるようになった。西欧諸国の本や映画が見られるようになり、外国の芝居も上演されるようになった。(P.227)

 リハーサルの最中、僕は気心の知れた音楽科の生徒ルー・フェンティアンに、自分の演じるジークフリート王子はどうかとたずねてみた。すると、踊りは上手いが、やっぱり王子のふりをした中国の農民に見えるという答えが返ってきた。彼の言うとおりだった。踊りのステップは問題なかったかもしれないが、ヨーロッパの王族について、僕はなにも知らなかった。先生たちも王子がどのようにふるまうものかわかっていなかった。王子こそ共産主義と真っ向から対立する存在だったからだ。(P.237)

毛沢東のバレエダンサー

毛沢東のバレエダンサー